日誌を自分で読み返して思った。
「なんだ、自分ちゃんと苦労してるじゃん。」
他人がどう感じるかはわからないが、僕がこの日誌を読み返すと、すごく不幸そうに感じた。
僕の表現力や、文字だからという理由があるのかもしれない。
要するに、大げさに読めてしまったのだ。
実際はしょうもない出来事を大げさに書いてしまっているのかもしれない。
これがいいことなのか悪いことなのかは置いといて。
結果、僕は少し楽になった。
なぜか考えた。
今まで、この日誌で書いた内容を色んな人に話してきた。
するとどうだろう、返ってくる言葉は
- 「そんなこと、俺の 〜 に比べたら…
- 「私だって、昔…
- 「私も 〜 なことがあって…
…だから、そんなこと、どうってことない」
だった。
僕は「そうかあの人に比べればどうってことないんだな」と思って話が終わる。
しかし、ここで疑問が出てくる。
- どうってことないはずなのに涙が出る。
- どうってことないはずなのに悔しい。
- どうってことないはずなのに苦しい。
- どうってことないはずなのに体が動かない。
“どうってことないこと”に対して苦しんでいる弱い僕が僕を苦しめるのだ。
そして、それが「なぜ苦しいのかわからない」につながる。
日誌を書いて、読み返すことで、辛いことを辛かったこととして納得することができた。
今の状態になるまでの順番を整理する。
- 辛いことがあったから苦しい
- 辛いことはどうってことない
- どうってことないのに苦しい
- なにが苦しいのかわからなくて苦しい
それが今回、以下のように変わった。
- 辛いことがあったから苦しい
- 辛いことはどうってことない 辛いことは辛かった
- どうってことないのに苦しい どうってことあったから苦しい
- なにが苦しいのかわからなくて苦しい 辛いことがあったから苦しい
1と4が一緒になった。
つまり「辛いことが辛かったから苦しかった」とわかって楽になったのだ。
「なにが苦しいのかわからない」の答えは本当に単純だった。
この経験からわかったことが2つ。
- 辛いことを他の感情で誤魔化そうとしない。
- 辛いことに上下なんてない。
辛かったことをどうってことないことだと言い聞かせる事は出来ない。
もしそうしてしまうと「じゃあなんで今辛いんだ?」となってしまう。
「どうってことないもので苦しむはずがない、なにが自分を苦しめているんだ?」の苦しみを探す苦しみが待っている。
辛かったことはそのまま解釈して、心の引き出しにしまうべき。
辛かったことがどうってことない引き出しに入っているから頭が混乱する。
そして、辛いことに上下なんてない。
よく不幸自慢大会を始める人たちがいる。
本当に意味がないと思う。
不幸に不幸をぶつけてもなにも解決しない。
辛い話は理解し合うのがいいんじゃないだろうか…。
以上、ご覧いただきありがとうございました。
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